愛車の「愛」について


こう書くと諸兄にはポエム的つまらないな話かと思われそうだが(笑)

そうではないです!

何かというと…

愛車には値段やブランド、性能よりも"いかに自分の感性に合うか"という話。

結婚した人は、恋愛してた人よりはビビビっときた人と、というアレである(笑)

大切なのは他人の評価より内なる自分の感性

以前の記事で書いたエンジンから感じる「感性」は僕にとっては"音"であるように、ドライバーの魂を震わす"何か"は馬力やトルクよりも「感性」だと捉えている。

街中を走っているとき、路上にはヒエラルキーというか、一種の車格競争みたいのがある。

都会のコンビニ駐車場で、軽自動車をレクサスの間に停めた時に感じる「アレ」だ(笑)

けどそれは、外から見た場合で、運転してしまえば関係ない。


50万円のシルビアで、信号待ちで隣がフェラーリでも、ドライバーが「第三者目線」を気にすればそうだろうし、「自分の愛車」として車内で完結していれば関係ないのだ。

だから、「感性」の部分はクルマの内側、ドライバーに訴えてくるものであるべきだと思っている。

そう、いくら安かろうが古かろうが、ドライバーが満足してドライブできるような車であれば、そんな車格競争から抜け出せるのだ。
(これは大企業内での出世競争にも言えること)

僕は子供の頃、足漕ぎのオモチャのクルマに乗っていた。

赤い、無名のよくわからないやつだったけど、たいそう気に入っていた。

近所の同級生が、メルセデスの高そうな足漕ぎクルマにのって、よく遊びに来ていたが、僕は「なんか高そうなクルマ」とは思いつつも、自分の「愛車」に何の不満も無かった(笑)

つまりそういうことだ。


自分の「感性」訴えてくるクルマと出会える奇跡

そういう意味で、僕のマセラティは大切なパートナーである。

子どもが生まれてから結婚生活が続けられるかどうかと同様に、環境が変わってもクルマ文化を継続出来るかどうかの境界線だと思う。

クルマを買って満足ではなく、どのように付き合って行くか。

予期しないトラブル、出費というのは何事にもつきものだ。

それを乗り越えるには、愛着があるというのは重要な要素だと思う。

また愛着が湧くには、やはり「感性」が重要だと思う。

外ではなく、内。

内面的に感じる感覚が心地よいからこそ、愛は生まれると思う。

愛は、人間の行動の源だと思う。

なんか、やっぱりポエム的になってしまったが、自動車文化を維持する為には「愛」が必要で、愛が生まれるきっかけは人間の内にある「感性」が重要である事を、くどいようだが主張したい。

次は「感性」について書いてみたいと思う。



作成:sion(官能サウンド研究家)
編集:mushitaro

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